瀬戸焼を知る

瀬戸焼の歴史

鎌倉時代

瓷器から山茶碗・古瀬戸へ

日宋貿易が開始され、青磁(せいじ)・白磁(はくじ)などの優れた陶磁器類が大量に輸入されると、当時の上層階級である貴族・寺院などは、中国陶磁を唐物(からもの)として珍重し、要求するようになりました。
このような、消費者である貴族らの需要の変化により、平安時代末になると、東海地方の瓷器の生産者達は、近隣の在地領主や名主達の日常雑器としての、無釉の碗・皿・鉢を主体とする「山茶碗」生産へと転換するようになりました。(写真右)
瀬戸窯においても例外なく山茶碗の生産が行われ、これらの山茶碗を専用に焼いた窯が、瀬戸市内の古窯全体の約半数を占めていることから、生産量も多かったと考えられます。そして、その生産は室町時代中期頃まで存続しました。

小皿・山茶碗

小皿・山茶碗

下半田川C窯出土 13世紀後期
口径(腕)14.4 (瀬戸蔵ミュージアム蔵)

鉄釉印花文仏花瓶

鉄釉印花文仏花瓶

13世紀末期
器高28.7(瀬戸蔵ミュージアム蔵)

瀬戸窯では、鎌倉時代の初期から室町時代中頃に至る約300年ほど、山茶碗の生産の他に「古瀬戸」の生産が行われていました。
古瀬戸は、他の中世の窯業地が無釉の日用雑器類の生産に留まっていたなか、瀬戸窯のみで生産された施釉(せゆう)陶器(釉薬を器面全体に施したやきもの)の総称です。

なお、山茶碗・古瀬戸を焼成していた窯は、いずれも「窖窯」(あながま)と呼ばれているものです。

窖窯

×

ページトップ